義民茂左衛門縁起
茂左衛門は月夜野の出生で、時の城主真田伊賀守の施政に義憤を感じ沼田領七十七カ村領民の為 に一身をを犠牲にして磔柱上の露と消えた義人である。
真田伊賀守信直は、明暦三年(1657年)多年の願望であった沼田城主五代目となったが、本家 信州松代十万石に対抗して城の改築や諸工事に大金をかけ財政窮乏を招いた。
その立て直しの為、 無理な検地を行い従来の三万石の取り前を十四万石にしてしまった。その為歳入の増加を図るべく 川役、山手役、井戸役等、ついには婚礼にまで課税するに至った。滞納する者があれば、家中を捜索 し、尚不足であれば人質を取り、或いは水牢に入れる等、代官をして過酷な処分を行い、領民に泣か ざる者は無かったと言われている。
茂左衛門は沼田領民の苦しむ様子を見て我が身を省みず将軍に直訴、天和元年(1681年)真田伊賀 守は領地召し上げ、沼田城は破却となった。 直訴後捕らえられ処刑された茂左衛門供養の為、千日堂(嶽林寺飛び地境内)が建てられた。茂左衛門 と、共に処刑された妻くに二人の尊牌は嶽林寺位牌堂に祠られている。